- ホーム >
- 尾張昔ばなし
アシカは渚づたいに村人の声が聞こえて来なくなるまで、いっきに駆けた。
「ここまで来ればもう大丈夫だわ。さあお父さんやお母さんが待つお家へお帰り」
人魚はアシカの手から勢いよく飛び出し、月の光を受けて大きく跳ねた。
「あなたの手の中に、私のウロコを一枚残しておいたわ。大切に持っていなさい」
アシカはウロコを片時も離さなかった。
それからというもの、アシカの美しさは日ごとに増して、十七、八を数えるころには、影さえ虹色に輝いた。
「浅井村には天女がおらっせる」
国中のうわさにのぼって、ひと目見ようと男たちが押し掛ける。それから不思議なことがアシカに起こり始めた。
五十年、六十年と月日は流れ、結婚した相手、親戚や知人が次々に世を去っていくのに、アシカの美しさは衰えない。
数百年はたちまち過ぎた。だが、相も変わらずみずみずしい娘のまま、結婚した相手は両手で数えられんようになった。
さらに数百年が過ぎて、山や川の姿まで
変わっていく。それでも、女のあでやかな姿に陰りも来なかったが、むなしさを思うようになった。
「親兄弟はおろか、親類もみな遠い昔に消えてしまった。愛する人が出来たとて、すぐに消えてしまうに決まっている。この身ばかりが残り続けるのを何としよう」
アシカは尼さんとなって旅に出た。諸国巡礼の末に若狭の海の色に誘われて、やっとこの世から身を隠すことにした。なんとその時、八百歳を過ぎていた。
それでもオコソ頭巾から桃色の頬をのぞかせて、法印寺の洞窟に入って行った。が、ウロコを海に返す姿を見た者は誰もおらんかったそうな。 (おわり)
ずっとずっと遥かな昔。伊勢の海は尾張の地へ大きく入り込んでいて、今の一宮市浅井町あたり一帯は海辺だった。
浜には美しい白砂にかこまれた舟着大明神というお宮があって、漁師の船着き場になっていた。浅井村の人たちは、そのお宮をとりまくようにして暮らしていた。
ある年の夏の日のこと。大風が去ってまちかまえていたように漁へでた村人が、不思議な魚を捕ってきた。胸から上は人間に似ていて、あとはすべて魚。広げた両掌にやっと乗るほどの大きさだった。尾は日差しを浴びると、水晶のように赤、黄、青、紫と輝いた。
「こんな魚、気味悪くて食べられんわ」
魚を取り囲んで村人たちが騒いでいると、旅の坊さんが通りかかった。
「これこれ村の衆、心配することはない。庚申祭りをして、この魚を供えれば、思わぬ福運に見舞われる者がでるやも知れん」
舟着大明神で祭りが始められた。
太陽が沈み、かがり火が音を立てて燃え、村人は踊りに夢中になった。
その様子をじっと見守っているアシカという少女がいた。アシカは踊りの中を抜けて祭壇の前に立った。じっと魚を見つめていると、思わず声が出てしまった。
「なんて美しい姿なの。うらやましいわ」
すると、魚もアシカを見つめた。
「そう思われるなら、私を助けてください。願いをかなえてあげましょう」
風が吹き抜けるような声だった。
「どうすればいいの?」
「私は遠くの海に住む人魚です。昨日の大風で流されてしまいました。そっと海へ帰してください」
アシカは人魚を胸の中へ隠し、踊りの中を駆け抜けて行った。 (つづく)
高さ二十メートル幹の周り六メートル。樹齢四百年の老い桜が国道沿いに移植されて、花が咲くなんて誰も思っとらなんだ。村と一緒にダムへ沈めてやるのがいちばんええと、誰もが思ったわな。
あの桜は村はずれにぽつんと立っておってな、花見の時期になっても見向きもされんかった。花見をするにはつごうの悪い枝ぶりなんよ。背がばかでかく下枝がなくて、四百年もさみしく生きてきたんよ。わしがあの桜の木なら、すねて枯れてしまっただろうな。だってそうじゃないか。姿かたちが悪いからと言って、今まで知らんふりしといて、急に人間たちの勝手で人前に出して声援されたって・・・。
その時、その桜から、「有りのままの自分でいいと信じて生きてきてよかった」と聞こえてきたんよ。
急に自分が恥ずかしくなった。わしは自分の鼻の形がいやだった。自分の周りに人が集まって来ないのは、この鼻のせいだといつも思っていた。わしは賑やかなのが好きなのに、いつも孤独で・・・。あれは十年ほどになるのか、姫路にある整形外科で鼻の手術をしたんよ。鼻だけは映画俳優のようになったさ。でも、やっぱり人はわしの周りに寄ってきてくれん。ずっと悩んでいた。
桜に言われハッとした。もう居ても立ってもおれなくなって姫路へ駆けた。鼻を元に戻しにね。自分を信じて、有りのままで生きていく。それを教えてくれたこの桜の木の子孫を1本でも多くこの地上に根付かせたかった。それで、勤務路線の名金線沿いに植え始めたんよ。
二千本のさくら道。その内の1本は北園通の裁判所の庭で今も枝を広げている。佐藤良二、昭和五二年、享年四七歳。 (おわり)
「太平洋と日本海を桜のトンネルで結ぼう」
そんな夢を抱いた男がいた。
名古屋から金沢のバス路線沿いに黙々と植えたその内の一本は、一宮市北園通の裁判所の庭にある。男はバスの車掌さんで、佐藤良二さんといった。
どうして桜を植え続けたのかって…。誰にも話さんかったな。あれは昭和三十八年、わしが三十四歳の時だった。岐阜県白川村の御母衣ダム建設で、ダムの底に沈むことになった村の大桜が、移植されることになってね。ちょっとした好奇心から、その仕事を手伝わせてもらったのよ。
根付くは難しいと思っていたのが、つぎの年の春、見事に花を付けてね。そう、国道一五六号線沿いにある荘川桜のことだ。
ダムに沈んだ村の人たちが、桜の木の下にムシロを敷いて、花見をしとった。なにしろ、八つの村がダムの底に沈んだんだからな。荘川桜の下は、連日そんな村人でいっぱいだった。
当時、わしはその荘川桜の際を走るバス路線の車掌でねえ。バスの中から顔なじみの村人を目でさがしておった。すると一人のばあさんが、湖水をじっと見つめていたかと思うと、ふらふらと桜に歩み寄って、両手で幹をいとおしそうになではじめた。
その内に幹にしがみついて、泣き出したんよ。おいおいと声を上げてね。みんながいくらなだめても離れようとせん。わしはばあさんの気持ちもよう分かったんだが、それよりなぜか、桜の気持ちが胸に伝わってきてな。あの老木、うれしそうだったわ。
(つづく)
熱田さんに着くとさっそくお参りを済ませて、南西の空き地にホウロクを並べた。
「ホウロク、ホウロク、三河名産のホウロクはいらんかね」
どういうわけかその日はよく売れて、まだ陽が高いうちに一枚を残すのみとなってしまった。
「これはもしかしてお地蔵さんのお陰かもしれんな・・・。ありがたいことだ」
帰り仕度を始めて、ハタと困ってしまった。お地蔵さんの始末だ。おぶって帰ろうにも紐の持ち合わせがない。
「お地蔵さま、しばらくこのままで辛抱してくださいまし。三日たったらきっとお迎えにまいります」
残った一枚のホウロクをお地蔵さんの頭にかぶせ、雨露がかからないようにして帰って来た。
そして三日目、加平さんは約束どおり紐を持って、熱田さんへやってきた。
「お待たせしましたお地蔵さま。繁原へ帰りましょう」
頭のホウロクを取ろうとしても離れない。それではとお地蔵さんを背負おうとしても、まるで根でも生えたように、びくともしない。
「ひょっとしたらお地蔵さまは窯場の道端より、ひとけの多いこの町を気に入られて、ここを動きたくないと言ってみえるのかも知れん」
加平さんはお地蔵さんの前にお花を供えて、そのまま帰ってしまった。
その後に残されたお地蔵さまは、ホウロクの笠をかぶったまま、熱田さんへ行き来する人や、東海道を旅する人が旅の安全を祈願するようになり、いつしか、ホウロク地蔵と呼ばれて今も親しまれている。
場所:地下鉄名城線伝馬町駅下車
北西徒歩5分
(おわり)
昔、三河国の繁原村ちゅうところにな、今で言やあ・・・刈谷市繁原町じゃろうかな。加平さと呼ばれるホウロク売りの若者がおったそうな。
ホウロクとは、粘土で造ったフライパンみたいなもんだ。当時は豆を煎るのによう使ったもだわ。陶器の素焼きだもんでよう割れる。どこの家にも一つや二つはあったわな。
繁原村にはホウロクを造って焼く窯があったもんで、加平さはそこでホウロクを仕入れて、知立の町や岡崎の町へ売りあるいておった。
ある年の正月のことだった。名古屋の熱田さんで、初詣を兼ねて店を出すことを思いついた。
「自分の初詣と参拝者がお客さんになるとは、一石二鳥じゃわい。今年は幸先がよさそうだ」
加平さは、さっそく窯場へいつもの二倍の笑顔で訪れた。
「今日はいつもよりちいと多く仕入れさせてもらいますでな」
と張り切って言ったものの、正月なので窯には火が入っておらんかった。去年の焼上げ残りが二十枚あるだけだった。
「これでは天秤棒の片方の荷にしかならんじゃないか」
ホウロクの運びかたは、二~三十枚ぐらいずつを荒縄で十文字に縛り、天秤棒の前と後ろにぶらさげて中央を肩に掛け、揺らしながら均等を保って歩いて行くのだ
もう片方の荷物になる程の重さの物はないかと辺りを見回すと窯場の前の道端に横倒しになったお地蔵さんがあった。
「これならちょうど重さが釣り合いそうだわい。お地蔵さまちょいとお借りしますよ。きょう一日辛抱しておくれや」
縄でくくって天秤棒の片荷にぶらさげた。重さはぴったりだ。 (つづく)
翌朝目が覚めて、昨夜のことは夢だったんだろうかと考えていると、叔父が『夕べ来たか』と挨拶もなしに駆けこんできました。
『やっぱり夢じゃなかったんですね』と話し合い、行くことにしました。それで四時ごろだったと思います。二人で自転車に乗って出発しました。古知野を横切って、布袋にさしかかったころ、列をなした明りが近付いてきて、昨夜の女子が、パッと私たちの前へ現れました。
「お待ちしておりました。さあどうぞこのカゴにお乗りください」
不安で言葉を無くした二人を乗せたカゴは相当なスピードで走っているようでした。5分ぐらいでしょうかカゴがドンと下ろされたのは大名屋敷のような門前でした。『小牧山の中にこんなに立派な屋敷があったとは…』といいながら、かがり火の間を抜けると、夕べの女子が言いました。
「小牧山には異次元へ通じる扉があって、ここは向こう側なのです」
二人がポカンと顔を見合わせていると、玄関では着物姿の娘が手をついて出迎えておりました。どの顔も真っ白で、とびっきりの美人でした。大広間に通されると、主人らしき男が待っておりました。不思議そうにしている私たちをみて、こんなことを言いました。
「…人はサルから進化したとききました。我々はキツネから進化した生き物です。もちろん異次元でのことですが。裸になればキツネにみえます。それを皆さんは化けると言ってみえます。ハッハッハッ…」
酒やごちそうのうまかったこと。気が付いたらカゴにゆられ、
「曼陀羅寺につきました。ここでお別れします」
の声で家につきました。次の日、もらったお土産の菓子を見ましたが全て本物でした。
(おわり)

私の名前は野田喜一、住まいは、江南市宮田です。あれは…、木曽川中学校へ習字の講師として奉職が決まった前の年のことですから、昭和26年の秋ですか。一宮の街は戦争の傷跡もすっかり修復されて活気をおびておりました。
あの日は映画を見ての帰り道、瀬部の金毘羅様の橋の欄干に腰をおろして一服しておりました。夕暮れでした。ふと川面を見ると、子犬らしきものが流れて来るのです。足が動いているので、かわいそうになって引き上げていると、叔父が自転車で通りかかりました。
『これは子狐だわ』と叔父がいいました。陽が落ちると肌寒いころでしたので、子狐はブルブル震えておりました。私が手ぬぐいで拭いてやると、叔父は枯れ草を集めて火をつけました。二人で子狐の身体をさすりながら乾かしてやりました。そのうちに立てるようになったので、草むらへ逃がしてやったのです。
そして、家へ帰ってきました。私は妻に先立たれておりましたから、一人で離れに寝起きしておりました。うとうとしていて何時ころだったかは分かりませんが、
「今晩は、今晩は」
と優しい小さな声で目が覚めました。起きるのが面倒だったもので『開いていますでどうぞ』と声をかけましたが、いつまでたっても入って来ません。仕方なく、起き上って土間の電気をつけ、戸をひらいて驚きました。真っ白の顔の、娘というより、若奥様という感じの、そりゃあ美しい女子がうつむきかげんに立っておりました。
「私は小牧山の吉五郎というものの家内です。今日は子供を助けて頂き誠にありがとうございました。主人がぜひお会いしてお礼がしたいと申しております、明日の晩、小牧山へおいでください」 (つづく)
「お父さま、私、民吉さんと一緒になります。そうすればもう他国者じゃないでしょう」
娘は民吉の胸に秘めた決意を痛いほど感じて、それがいつしか愛にかわっていた。民吉は娘の顔を見た。その顔は瀬戸の妻に見えた。民吉は黙ってうなずいた。
こうして、有田焼の修業が始まった。もともと腕のいい陶工だったので、三年もすると、父親より立派な有田焼ができるようになった。
そんなある日。妻が茶碗に子供の絵を描いている。民吉は思わずはっとした。
「あっ、わしは瀬戸の妻や子のことを忘れておった…」
有田焼の秘伝をすっかり修得したことも手伝ってか、瀬戸が恋しくてたまらなくなった。ある夜ついにがまんできなくなって、肥前有田を後にした。瀬戸に帰った民吉は、粘土の調合を変え、窯を改良して独自の磁器を焼き始めた。たちまち大評判になった。他の陶工たちも競って民吉の技術を習得した。
秋祭り日、瀬戸川ぞいの露店には、そんな陶工たちの磁器が所狭しと並べられていた。その磁器を食い入るように見て歩く一人の女がいた。長い旅をしてきたのだろう、今にも倒れそうな足取りだった。
「これは、…まぎれもなく有田焼。それに、民吉さんには妻も子もいたなんて…」
肥前有田の妻だった。これでは国へも帰れず、民吉の妻だとも名のれない。悲しみのあまり、瀬戸川へ身投げしたという。
それから秋の「せともの祭り」には毎年きまって雨がふる。
するとみんな「肥前有田の妻が涙をながしとる」と、呟くそうな。
(おわり)
瀬戸焼は鎌倉時代に始まった。江戸時代に入ってからは、尾張藩の保護下で生産された。したがって技術的進歩に甘く、江戸の終わり頃になると、磁器の出現に陶器の瀬戸焼は押されていた。そんな頃、瀬戸村に民吉という陶工がいた。腕もよく研究心も旺盛だった。
ある日、熱田奉行が一つの茶碗を携えて、民吉の家を訪れた。
「有田焼じゃ、どうだな」
きめ細かいつややかな焼き上がりで、たたくとチーンと金属音がした。民吉は『これだ!』と叫ぶと、そのまま妻と子を残して、九州の肥前有田をめざし一人旅立った。
なんとかたどり着いて、焼物を作っている家にとびこんだ。
「焼物の手伝いをさせてください」
中から娘と父親が現れた。
「あ、あなた様は・・・」
娘とは昼間偶然に会っていた。重そうな荷車を引いているのを見かね、民吉が押してやったのだ。咳をしながら父親が尋ねた。
「お前さん、どこから来なさった」
「尾張の瀬戸からまいりました」
「瀬戸、お前さん有田焼の秘伝を盗みに来たのじゃろう。その足でとっとと尾張へ帰りなされ。役人に知れたら、すぐに捕えられますぞ」
父親のようすが急におかしくなり倒れ込んだ。病気だった。
「民吉さん、父を荷車に乗せお医者様のところまでお願いします」
父親の病はすぐに治らず、民吉は車引きとして娘の家に留まった。
しばらくしたある日、少し元気になった父親は民吉に言った。
「こんなに世話になったが、他国者には秘伝を教えることはできん。なあ、分かってくだされ」
民吉は二人の苦しい胸の内が分かっていた。うなずいて戸口に向かうと、娘がさえぎった。 (つづく)
ライトがやっと届く辺りに、工夫姿の男が影のようにうつむいて立っている。警笛を鳴らしても聞こえる様子はない。あわててブレーキをかけた一瞬に男の姿は消えている。
そんな出来事が度重なるうち、点検車の乗り手がなくなってしまった。鉄道管理局からも応答はない。保線係ではとりあえず自分たちで供養をすることにした。山の石を切り出して慰霊碑をつくり、五人の名前を刻んだ。名古屋寄りのトンネルの出口脇に立て、遺族を招いて供養の式が行われた。その当日のこと。
「あのう、Kさんの遺族の方はおみえにならないのですか?」
遺族の一人が保線係に聞いた。
「八方手をつくしたのですが…」
「内の人からKさんの話をよく聞きました。なんでも大阪に十年ほど音信不通のお母さんがみえるということで、ここが終わったら、一緒に探す約束をしていたみたいです」
そんな話で供養は終えた。
超特急はいろいろな人の夢を乗せて走り続けていた。ある日、点検車の運転士が、供養碑がなくなっているのに気付いた。手分けして探すと、以前、血がしたたり落ちていた脇に立っていた。元に戻すと数日も立たないうちに移動している。
ある日、作業員が碑を担ぎあげて戻そうとすると、目の前に工夫姿の男が立ちふさがった。
「お願いだから動かさないでくれ、みんなその碑があると心が安らぐと言っている。私は今日かぎりで大阪にいく。もう碑を動ごかせないから頼んだぞ…」
作業員が腰を抜かしている内に男の姿は消えた。
新幹線に乗って坂野坂トンネルに入ったら、左の車窓に顔をつけて見てください、供養碑が見えるかも知れません。
(おわり)
昭和39年10月、東京-大阪間に新幹線が開通して、数日たったある日。列車は名古屋に向かって走っていた。豊橋を過ぎると、ほどなく坂野坂トンネルにさしかかる。社内食堂ではウエイトレスたちが終了準備を始めていた。
トンネルに入ると窓ガラスは鏡のようになる。一人のウエイトレスが、何気なく窓ガラスに写る髪に手グシして悲鳴を上げた。
「ギャーー!誰か来て!」
ウエイトレスはひっくり返って泣き出したが、車掌が駆け付けた時には、列車は何事もなかったようにトンネルを走りぬけていた。それからも二度三度と同じ事が起こったが、下り線だけだった。
このトンネルは10億円の費用と3年余りの歳月を費やした。固い岩にはばまれて難航し、五人の作業員が岩崩れで亡くなっていた。当時、国鉄では夢を運ぶ超特急に、こんなうわさが広がっては大変と、半信半疑で調査にのりだした。
終列車の後、十数人の作業員がカンテラを下トンネルに入った。
「社内の照明が何かに反応したのを見間違えただけなんでしょうに」
作業員たちは笑い合って、名古屋方面出口、二百メートルほど手前に来た時だ。壁からしたたりおちる湧水に、カンテラの光を当てて思わず立ちすくんだ。まぎれもなく血だった。
「たしか、岩崩れで五人がなくなったのはこのあたりですよ。」
先ほどの笑い声はどこえやら。作業員たちは震え上がった。保線係は作業全員に他言はせぬという誓約書を書かせ、鉄道管理局へ報告したが上層部は笑い飛ばした。
それから何日かが過ぎて、始発列車のレール点検車がその場所にさしかかった。
(つづく)
「みなの衆、私はこれから極楽浄土があるのかないのか、この眼で確かめに行ってこようと思う」
「お坊さま、極楽浄土を見に行くということは、もしや死ぬということですかい」
「いいや、私は死なん。極楽浄土を見に行ってくるだけじゃて」
「それじゃお坊さまは、極楽浄土はあったぞと、知らせに戻って来てくれるのですかい」
若い僧はうなずいて、法然上人から預かった数珠を頭上にかざした。
「これはカヤの実でできている。私が極楽浄土へ着いて、この眼で確かめたなら、糸を切って一粒まくことにしよう。なあ皆の衆、ここにカヤが芽を出したら、極楽浄土があるという知らせじゃ。そうしたら、安心してナムアミダブツを唱えながら、この世を生きてほしい」
若い僧は大きな穴を掘って木の箱を沈め、竹の息抜きを持って入って行った。
「さあ土をかけてくだされ。この息抜きから私の声が途絶えた時こそ、極楽浄土に着いた時だでな」
みんな若い僧の言葉どおりにしようと決めて、念仏を唱えながら土をかけた。
一日二日、息抜きからは、はっきりと念仏が聞こえてくる。
「お坊さま、極楽浄土があまり遠いようなら言ってください。この土をのけますでな」
息抜きからは、念仏以外の声が聞こえることはなかった。七日目の朝、急に念仏が止んだ。そして次の日、息抜きと並ぶように、木の芽が顔を出した。
「やっぱり極楽浄土はあったんだ」
村人たちは、みるみるうちに伸びるカヤの木を囲んで目を輝かせた。
庵は極楽寺と呼ばれ、その後、木曽川の洪水で大毛村へ流され今に至っている。
(おわり)
一宮市大字大毛にある極楽寺は、その昔、浅井町極楽寺村にあった。無住無名の庵だった。
平安末期のある日、法然上人と弟子の若い僧が、その庵で休息をとっていた。辺りの村は度重なる洪水と凶作や疫病で、人々の心はすさみ暗い日々をおくっていた。上人は村中を見渡した。
「このまま通り過ぎることはできん。心だけでも救わねば」
このとき法然上人は、ナムアミダブツを唱え念仏すれば、極楽浄土に往生できるという、浄土宗開立の決意で京都東山をめざしていた。
「上人様、都では大勢の僧が開立を待っています。ここは私に任せて、一刻も早く旅立ってください」
法然上人は思案のあげく、持っていた数珠を弟子に渡した。
「これは比叡山で修行のかたわら、カヤの実を拾い集めて作ったもの。きっと役にたつはずだ」
上人は一人で旅立った。若い僧はさっそく家々を回り、法然上人の教えを説き歩いた。
「この世は辛くとも、ナムアミダブツと唱えりゃ極楽浄土へ行ける。苦しみのない清らかな所じゃ」
やつれきった人々の心に、少しでも恵みを与えようと、説き続けたがなかなか心を開いてはくれない。
それでも日が経つうちに、一人二人と庵の前へ村人が集まった。
「お坊さま、念仏だけで誰もが極楽へ行けるとは嬉しいことだが、あの世から帰って来た者の話などきいたこともないのに、どうして極楽があるということが分かるんです」
「上人様がそう言われておるから、間違いはない」
若い僧のそんな答えに人々は納得するはずはない。
僧は考えあぐんで、とうとうある日、心を決めて庵の前に人々を集めた。
(つづく)
キツネにとって何よりの自慢はとびっきり早い足だ。
それが近頃、電車にすっかり脅かされつつあった。その上、ガタコト、ピーピーといやな音を原っぱ中に響かせるので、キツネたちを不眠症にしておった。
「ええい、やつのためにめっきり毛の艶も悪くなったわ」
助五郎親分、子分を従えて一宮の町へ行き、電車から降りてきたお絹さんの前へパッと飛び出した。
「わしだ、尾張で一番強い助五郎だ。なあお絹さん、わしのお嫁さんになる決心はついたかや」
「ホホホホッ、これはこれは大親分さん、せっかちなこと。私は強いものも好きよ、でも風のように早い電車がもっと好きなの」
一宮小町と呼ばれているお絹さん、それに似合った美しい声には、子分たちもうっとりしてしまう。
「なに。風のように速いだと、ハッハッハ、わしはその言葉を待っておった」
「あらあら頼もしいわ。それじゃ競争してみたらどうかしら。親分さんが勝ったら、そうねえ、ウフフフ」
助五郎親分は、善は急げとばかりその晩、印田の線路脇にズラリと子分を並ばせた。月の美しい夜だった。キツネはいかに人間より優れておるかという大演説をぶった。
やがて、静かな原っぱにピーと響いて電車が走って来る。助五郎親分は軽く屈伸体操をして、月明かりに光る線路の上にヒラリと降り立った。ひとっ飛び五メートル、いや十メートル、風のように走って行くかに見えたが、電車の方が早かった。
あっという間に追いつかれ、警笛が鳴ったかと思ったら、飛ぶよりも大きく跳ね飛ばされておった。
「おお痛てえ」子分どもに抱えられて、印田の叢へ帰って行った。
<おわり>
童話作家 平松哲夫さん
プロフィール
第11回 新美南吉文学賞受賞。
TBS系テレビ「まんが日本昔ばなし」執筆。
現在、民話の語り、講演などで活躍中

























